Iターン日記 (13)

   岡山の旧吹屋小学校の写真をお借りした。この記事の木造校舎は今はもうない。

映画に出てくるみたいな学校  <上>  2002 9/14 某紙掲載

校庭にはイチョウの大木

ひと足先に○○村へ来ていた主人は、東京に残っている私たちに

「小学校はね、映画に出てくるみたいな学校なんだよ」と言ってきた。

『ボキャ貧』と言われかねない表現だったが、十分に想像力を満足させて

○○村へ行ってもいいかなという気持ちにさせた言葉ではあった。

 

そのとき一年生になったばかりのY子が通うことになった**小学校は、

役場前の「メーンロード」へ出る最初のT字路にある。

道路沿いに幅七、八㍍の小さな川が流れ、

「学校橋」と名付けられた橋を渡ると学校の門になる。

来てから二、三年はこの橋は土橋で、車で通るのが怖かった。

 

門といっても左右に石柱がたっているばかりで、

学校の敷地を囲む塀があるわけではない。

左手に花壇とウサギ小屋が並んで、その先に二階建ての小さな木造校舎がある。

 

校庭の先には渡り廊下があって校舎から体育館へつながり、

体育館の先にはもう使われなくなった平屋の校舎がある。

この校舎はひっそりと寂しげな気配だが、

戦後しばらくは、それこそ映画のシーンのように、

木枠の窓から子どもたちの声が聞こえたのだろう。

 

田んぼと畑と小さな川に囲まれて、

この小学校の背景には空が広がるばかりである。

ここで六年間を過ごす子どもたちは、

三百六十度に広がる空の下で大きくなっていく。

遮るもののない空の下で育つのは、

当たり前のようで、実は特別なことのように思われた。

 

  ***** ***** *****

 

校庭の西の端にはイチョウの大木が空に向かって真っすぐに伸びている。

Y子の友達のAちゃんのおばあちゃんが

小学生だったころの何かのお祝いの記念樹だというから、

おばあちゃんの子ども時代、Aちゃんのお父さん、お母さんの子ども時代、

そしてAちゃんと、三代を過ごした木だ。

 

晩秋、このイチョウが紅葉すると、

空気の色によっては息をのむような美しさである。

T字路を折れながら見とれてしまうので要注意。

落葉が始まると木の下は落ち葉で埋め尽くされ、

「黄色いじゅうたんみたいにふかふかになる」のだとY子は言った。

一年のうちのほんの数日の間に、この出来事は終わってしまう。

 

イチョウが枝ばかりになったころ、

Y子はこの小さな木の小学校から「積雪時の緊急連絡網」を持って帰る。

この便りが届くと、

ああ、**村の冬が始まったのだと、私はいつも思った。

 

 

 

Iターン日記 (12)

草取り <下>    2002 9/7  某紙掲載

見事な自己表現に感嘆

目に触れる所が全部土の上にあるのだから、

気温が上がるごとに、ひと雨降るごとに草はもちろん成長する。

家の周囲の草取りが一周終われば、次の草がもう生えているといった具合で、

素直な心で観察すれば、これはほれぼれするほどの生命力だ。

 

照りつける太陽と草いきれと、そういうものから人が力を得ているのは確かだが、

ただ、はびこってしまえば家の周辺は草むす様相を呈す。

主人は「おまえのは病気だ」と言った。

「生えるものは生やしておけばいい、

意地になって草取りするのは病気だ」と言うのである。

 

「草取りしなきゃあ」のささやきが常に頭の隅にあって、

春から夏にかけてほとんど泣いているか、腹を立てている状態の私は、

主人の目からはこだわりの度を越してるように見えたろう。

 

それなら四六時中草刈機を持って歩いているおじさんたちも

みんな病気だということになる。

主人の言い方には価値観の違いがあるし、

自分にはできないという居直りのニュアンスもある。

生えるものは生やしておけばいいとはとても思えない私は言うしかない。

「私が草取りをしているから、あなたも快適に過ごしていられるのよ」

 

二年が過ぎ、三年も過ぎ、四年目の夏には私はつぶやいていた。

「今度の冬が来たら、クマみたいに冬眠したい」。

村の無線放送からはときどきクマの目撃情報が流れる。

まだ出会ったことのないクマに、言ってみれば生活感のようなものを感じた。

冬の間じっとこもっていればまた英気も養えるだろう。

 

草取りにうんざりして「東京に帰りたい」と思ったのではなく、

「クマみたいに冬眠したい」というのはおかしなことである。

こういう発想の回路は、

もう田舎暮らしにハマっていたということになるのだろうか。

 

   ***** ***** *****

 

若い人の草刈りには、まだ仕方なしの雰囲気がある。

ここを通り越したおじさんたちの草刈りは、ちょっと違っている。

腕前もさることながら、意志の力といったらいいのか、

自己表現なんだろうな、と考えたら一番しっくりくる。

自己表現の喜びがなければ、あんなにきれいに草刈りできるはずがない。

土地を守るという使命感だけで、草ばかり刈っていられるはずがないのだ。

 

本当に、草刈りの終わった後は、どこもどこも美しい。

眺めるばかりの私たちは、見事な自己表現に感嘆する。

 

 

 

I ターン日記 (11)

草取り <中>    2002 8/31 某紙掲載

花を植え草に先手打つ

主人が草刈りに追われているようには見えないから

ひとまず安心といったところだが、

私にとってはこれこそ田舎暮らしの知られざる醍醐味と言ってもいい。

「田舎へ来て何が一番大変か」と聞かれたら、

私なら「草取り」と答える。

 

今住んでいる家は役場の後方、数枚の田んぼを隔てた所にある。

村の定住促進住宅だが、村が建てた家ではなく、

個人の持ち家だったものを村が買い取ったそうだ。

 

この家に以前入ったI ターンの若夫婦はNHKの番組で

ドキュメンタリーを撮られたと聞いている。

I ターンという言葉もまだ一般的でなかった頃で、

村の定住促進事業が注目されていた。

幼い子どもが三人いた若夫婦はその後、村を出ていったそうだが、

仮住まいから新たに家を探していた私たちが借りることができた。

 

本通りから入る道沿いには老人ホームと小さな縫製工場がある。

それを過ぎて一本道へ入るので、

役場の裏手といってもほとんど人通りはない。

かといって人の気配もしないほど寂しいところではない。

日当たりも眺めも実に恵まれていて、隣の家との間には数枚の田んぼがある。

 

家の周囲は広々としていて、このことは主婦である私のテリトリーが、

鍵一つで出入りする都会のマンション暮らしから

数百倍に拡大したことを意味した。

つまり私の責任において幾分なりともきちんとしておかなければならない

土地があったということなのだ。

 

また以前の若夫婦の様子を親切に話してくれる人はそれぞれにいたから、

私がこの家をどのように保つかは、

それなりの関心を持って観察されていたふしがある。

こういうといかにも田舎の煩わしさを絵に描いたようだが、

そういうことではなく、新しい住人の暮らしぶりが周囲の人から

観察を受けるのは避けて通れないと理解している。

 

   ***** ***** *****

 

ガーデニングに特別な興味があったというのではなかった。

田舎暮らしへの憧れが自家用野菜を作らせたのでもなかった。

私の場合は、家の周囲をみっともない様子にはしておけないというその一点で、

草取りをし、草に先手を打つために花を植えたのである。

 

これはいかにも楽しくない発想だった。

実は私は、田舎へ行ったら草取りが待っているなんて、思ってもみなかった。

明らかに想像力の欠如と言うしかない。

 

 

 

I ターン日記 (10)

草取り <上>    2002 8/24 某紙掲載

やっぱり必要 草刈り機

私たちが引っ越してきたのは夏の七月二十六日だった。

入った集落は神社があるからだと思うが、「宮組」という名前だった。

翌日、自治会長の奥さんに案内してもらって

集落の二十数軒に挨拶回りをして歩いた。

多分その数日後に「道打ち」と言われる道路沿いの草刈りがあったはずだ。

鎌を持って参加したが、

くっついて回ればいいといってもらったので、なんとなく終わってしまった。

 

小学校からも草刈りの連絡をもらったが、結婚式があって参加できなかった。

まだ行っていない学校から

草刈りのお誘いが来るというのもなんだかおかしな話だが、

そのときは別段なんとも思わなかった。

 

つまり最初の夏は草刈りの脅威を知らないで過ごしたことになる。

次の春が来て主人は草刈機を買ったはずだ。

「やっぱり草刈機はいるでしょう」と主人は言ったが、

この報告を受けた実家の母はひどく心配げであった。

姉は主人の名前を挙げて

「草刈り機を持つ姿なんて想像できない」とけらけら笑った。

 

   ***** ***** *****

 

春先には「環境美化の日」があって、集落ごとにゴミ拾いをして歩く。

川の中のゴミもさらう。

「道打ち」は七月下旬、その後、川の中の草刈りもあってお盆を迎える。

八月の下旬は一斉に学校や保育園の草刈りがある。

子どもが保育園、小学校、中学校といっている親は、

ダブらないように調整してあるから、そのどれにも出かけることになって、

その上、職場周辺の草刈りもある。

お宮の総代になっていればこちらへも出かける。

 

春先から秋口にかけて、田んぼのあぜ、家の周辺、裏山の斜面と、

休む間もなく草刈りが追いかけてくる。

何もこう言ったからといって、

村人は土日を草刈りだけで過ごしているのではない。

春から秋はなんらかの行事が土日のたびにそこかしこ、

はっきり言えばびっしりと計画されているから、

草刈りと行事を縫うようにして土日は消化されていく。

 

我が家には田んぼと山はないから、年に数回、主人は草刈り機を持って出る。

村の人たちから見ればお遊び、子どもだましのような草刈り機の出番だが、

主人はこれで十二分に草刈りを堪能している。いや、させられている。

 

まあ確かに草刈り機を使おうとすると、

なかなかエンジンがかからないところを見ると、

草刈り機はもっとまじめに草を刈れと言っているのだろう。

I ターン日記 (9)

大好きなおじさん <下>    2002 7/20 某紙掲載

言葉に隠れた優しさ

村の中でもう一度引っ越しをしたとき、村の大型ゴミの処理場へ行った。

六年前のことだ。

役場で届けをして自分で搬入する。

それは本線道路から脇道へそれた山の中にあった。

主人と二人、恐る恐る車を入れたのである。

可燃物の焼却炉を過ぎてその先が大型ゴミの廃棄場所だった。

 

谷あいに大型ゴミが滑り落ちていくように投げ入れられていた。

収集車には持っていってもらえないゴミが、

谷底の斜面を覆っていたのである。

「ここへ捨てるのか」と言ったきり、二人とも言葉をなくした。

普段なら冗談の一つや二つを言い合うのに、冗談にはならない光景だった。

 

山をわたる風の音と、

時折、高いさえずりを残して飛び立つ鳥の気配しかしない山の中である。

おじさんが私に言った「ヨーニ、ヤレンモン」が、

自然とはおよそ異質なものが、じっと黙ったまま谷を埋めていたのだ。

 

このとき初めて、山も木も生きているのだという当たり前のことを

私は実感した。

痛いでしょう、気持ちが悪いでしょうと、

子どものように山や木の気持ちを思った。

田舎暮らしの実情だけが私たち家族に物を買うことを躊躇させるのではない。

小さな村に暮らすことで、

ゴミの行き先までがきちんと目に見えることになったのだ。

 

  ***** ***** *****

 

もちろん、村の大型ゴミの処分場は三年前に封鎖された。

外からは緑に覆われてその姿をさらしてはいないものの、

谷の底で、おそらく次世代が解決するのを待ち続けるのだろう。

Y子にもあの谷を見せておけばよかったと思う。

村議会には、個人でゴミを燃やすことに制限を設けてほしいという

誓願も提出された。

今では「燃えるモンは燃やす」というわけにもいかなくなったのである。

 

ところで、田舎暮らしを始めた早々の私に、

最初のカルチャーショックのパンチをくれたおじさんは、

大好きなおじさんになった。

私はそれからも時々頼ることがある。

ストレートなもの言いの先に、心と心で会話しているような

さわやかで暖かい感じがある。

 

そしてこの言葉は今でも鮮やかに、私の頭の一角を占めている。

「燃えるモンは燃やす、畑に捨てられるモンは捨てる、

ヨー二、ヤレンモンだけ、ゴミに出すモンだあの」。

ゴミを出し続けなければ生きていけない人間の、

精神の覚悟を表す言葉のようでもある。

 

I ターン日記 (8)

大好きなおじさん <中>   2002 8/3 掲載

ゴミ処理に追われて

引っ越してきたひと夏中、私はゴミ処理と格闘した。

おおげさでもなんでもない。

頭の中はほんとにゴミのことでいっぱいだったのだ。

おじさんが言ったゴミ処理は経験したこともなく、

想像してもちっとも具体的ではなかった。

 

ウッちゃんは、作ってくれたドラム缶のゴミ焼き器を

家の前の小さな川の土手に設置してくれた。

日中、夏の太陽に照りつけられて土手の草は乾燥しきっている。

小さな火でも飛んだらあっという間に広がっていくからと、

実家の母にうんと脅かされた。

 

二、三日おきに五時起きして、

蛇がいるからとこれも母に脅かされて軍手にジーンズ、長靴をはき、

水を入れたバケツを二つ三つ用意してゴミを燃やしたのだ。

燃やしている間はずっと火を見ていた。

 

朝六時前にうちの家の前を通る人がいた。

『レストラン』のママ。

その当時は近くの会館に『レストラン』があった。

「大丈夫でしょうか、こんなに火が出て」と、

ドラム缶から勢いよく上がる火に恐れをなした私が話しかけても、

「セワナイ、セワナイ」と言って手を振りながらママは通り過ぎる。

お世辞にも立ち止まって様子を見るふりのひとつもない。

 

このころ、何かにつけて思ったものだ。

「田舎の人って、奥ゆかしいのかなんだか知らないけれど、

こちらは分からないんだから手取り足取り教えてくれたっていいじゃない」

これは逆恨みというものだ。

今になって思えば、

ゴミ焼きなんて教えるもなにもあったもんじゃあなかったのだ。

 

   ****** ***** *****

 

「あそこの海に潜ればサザエなんていくらでも採れる。

女房なんかサザエはもう飽きたから、採ってくるならアワビにしろって言いますよ」

以前、ある会合で楽しそうに話したUターンの男性に、

私は思わず聞いてしまった。

「で、そのサザエの殻はどうやって捨てるんですか?」

「裏の山に放り投げるんです」

なるほどすばらしい。

私の問いに反射的に答えてくれたようだったが、後で不思議に思ったかもしれない。

 

玄関先に届けられた白菜の外葉や、魚の頭はどう捨てたらいいものか、

ああでもない、こうでもないと考えている女は、

彼には想像できなかったろう。

I ターン日記 (7)

大好きなおじさん <上>   2002 7/27 某紙掲載

ゴミはヤレンモンだけ

引っ越してきて一週間後のことだった。

テレビがちゃんと映らないので、

以前電気店をしていた人が村にいると聞いて、来てもらった。

無事にテレビは映って、麦茶を飲んでいたらそのおじさんはこう言ったのだ。

 

「あんた、この間、エットのゴミを出しんさったろう」

エッ、このおじさん、どうして私が出したゴミのことを知っているんだ。

 

「わしはゴミの収集もやっとるで。スタンドの横にエット出とったケエ、

役場にあのゴミはドガアするだあ、と言うたら、

『そりゃあ、今度来んさったSさんが出しんさったろうケエ、

今日のところは持っていってやんさい』と言うケエ、持っていっただが」

「だって、引っ越して来たばかりで、ゴミがいっぱい出たんですよ」

 

「ナンボいっぱいだゆうたケエ、燃えるモンは燃やす、畑に捨てられるモンは捨てる。

ヨーニ、ヤレンモンだけ、ゴミに出すもんだあの。」

 

燃やすとか、畑に捨てるといったゴミ処理など思いつきもしなかった私は、

初めて会ったおじさんに食い下がった。

「燃やすって、どこでどう燃やすんですか。

畑に捨てるって、どこの畑に捨てるんですか」

「そりゃあまあ、燃やす場所をつくってだな、ムニャムニャ」

 

    ***** ***** *****

 

七年前、その当時は東京でもゴミ出しはさほど厳格ではなかった。

スーパーの袋で集積場に出しても収集車は持っていってくれた。

 

私は慌てた。

お昼を食べに帰った主人をつかまえて、

「誰が出したゴミだか、役場にまでわかるのよ。

これって怖くない?」と訴えた。

主人はうーんとうなって、

「ウッちゃんに聞いてみたら?」と言うしかない。

 

家の隣にはガソリンスタンドがあって、

そこのウッちゃんは私たち家族の頼りの綱だった。

みんなからTちゃんと呼ばれていることは後でわかったが、

私たち家族では勝手にウッちゃんと呼んでいた。

 

ウッちゃんは、夕方スタンドの裏から、

「はよお洗濯物をしまわにゃあ、ヨーニ湿ってしまうで」と、

私に声をかけてくれるのだった。

山間の村では日が傾くとあっという間に露が降りて、

せっかく乾いた洗濯物も湿ってしまう。

そんなことも当時の私は知らなかった。

 

早速泣きついた私に、ウッちゃんは仕事の合間をみて

ドラム缶でゴミ焼き器を作ってくれた。

灰を落とす仕掛けがしてあった。