草取り <下> 2002 9/7 某紙掲載
見事な自己表現に感嘆
目に触れる所が全部土の上にあるのだから、
気温が上がるごとに、ひと雨降るごとに草はもちろん成長する。
家の周囲の草取りが一周終われば、次の草がもう生えているといった具合で、
素直な心で観察すれば、これはほれぼれするほどの生命力だ。
照りつける太陽と草いきれと、そういうものから人が力を得ているのは確かだが、
ただ、はびこってしまえば家の周辺は草むす様相を呈す。
主人は「おまえのは病気だ」と言った。
「生えるものは生やしておけばいい、
意地になって草取りするのは病気だ」と言うのである。
「草取りしなきゃあ」のささやきが常に頭の隅にあって、
春から夏にかけてほとんど泣いているか、腹を立てている状態の私は、
主人の目からはこだわりの度を越してるように見えたろう。
それなら四六時中草刈機を持って歩いているおじさんたちも
みんな病気だということになる。
主人の言い方には価値観の違いがあるし、
自分にはできないという居直りのニュアンスもある。
生えるものは生やしておけばいいとはとても思えない私は言うしかない。
「私が草取りをしているから、あなたも快適に過ごしていられるのよ」
二年が過ぎ、三年も過ぎ、四年目の夏には私はつぶやいていた。
「今度の冬が来たら、クマみたいに冬眠したい」。
村の無線放送からはときどきクマの目撃情報が流れる。
まだ出会ったことのないクマに、言ってみれば生活感のようなものを感じた。
冬の間じっとこもっていればまた英気も養えるだろう。
草取りにうんざりして「東京に帰りたい」と思ったのではなく、
「クマみたいに冬眠したい」というのはおかしなことである。
こういう発想の回路は、
もう田舎暮らしにハマっていたということになるのだろうか。
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若い人の草刈りには、まだ仕方なしの雰囲気がある。
ここを通り越したおじさんたちの草刈りは、ちょっと違っている。
腕前もさることながら、意志の力といったらいいのか、
自己表現なんだろうな、と考えたら一番しっくりくる。
自己表現の喜びがなければ、あんなにきれいに草刈りできるはずがない。
土地を守るという使命感だけで、草ばかり刈っていられるはずがないのだ。
本当に、草刈りの終わった後は、どこもどこも美しい。
眺めるばかりの私たちは、見事な自己表現に感嘆する。