Iターン日記 東京→島根(23)

眺める人 <2> 2002 11/23 某紙掲載
脇道に入るのが”怖い”
Y村の昼下がりにもなると、奇妙な時間が流れる。
朝のうちは郵便局やら農協やらスーパーへ、
身支度を整えて歩くおばあちゃんたちを見かけるのに、
昼下がりにはみなさん、ひと段落するらしい。
「繁華街」に住んでいる人には特別不自由はないのだが、
山の中にもぽつんぽつんと集落がある。
5軒でひと集落を担っているところもあって、ごみの収集車も来ない。
名前は知っているのに行ったことがない。
実は本線道路から脇道へ入っていくのが怖い。
山の中に入ったり、田んぼの中の一本道へ入れば、
先細りの道なら身動きが取れなくなる。
「どの道も行き止まりになっていることはない。必ずどこかへ出る」
と主人は言う。
Y村へ来た早々、
突然の集中豪雨で弥栄村への県道が通行止めになったことがあった。
浜田へ下りていた主人は林道をやりくりして帰り着いたことがあったので、
この言葉には説得力がある。
たぶんどの道も山の中で行き止まりにはなっていないだろうが、
たとえどこかへ出たとしても、
目印もなければ人にも会わないのである。
どこへ出るか分からない道に、私は車を入れることができない。
***** ***** *****
手元にある4年前の村の資料によると、
最高気温は34.6度、最低気温はマイナス8.8度とある。
極端な暑さ寒さというのでもなく、季節のそれぞれがくっきりと表れる。
ところがふた冬前の1月、村の資料を塗り替えるマイナス13.2度を記録した。
この年の冬は雪が多かった。
こちらへ来てからひと冬に20ー30センチの雪が何度か降って、
あとはちらちら降るかなという程度だったのに、
その冬はクリスマス前に結構な雪に降られて、以後ずっと雪暮らし。
除雪車が通った道路の雪は消えても、田んぼや畑は真っ白、
家の周囲は雪ずりの山だった。
お正月が明けて1月26日、一晩で62センチの積雪を記録した朝は、
雪国の人にはまことに申し訳ないが、ワクワクした。
主人はスコップを持って自分の歩く前の雪をかき分けながら事務所へ出かけた。
放した犬たちも主人の後を追ったが、
さすがに戸惑って私の顔を眺めた。
Yの外から雪見舞いの電話が届く。
函館の母は深夜のラジオ放送で
「弥栄村の積雪55センチ」と流れたのを聞いて、
全国広しといえど、これはどうしてもあのY村であろうと思ったと言う。
Iターン日記 東京→島根(24)

眺める人 <3> 2002 11/30 某紙掲載
最高にスリリングな夜
1時間に78ミリというとんでもない雨量を記録したこともあり、
極端な変化がこの村を襲うことがある。
このときはこちらでは流れていないテレビ局のニュースになり、
夜遅く東京からも大丈夫かと聞いてきた。
村の外から言われて「ふ〜ん、そうだったのか」とうなずく。
確かにこの雨は、乱暴な、歓迎の挨拶がわりのようなものだった。
前の川は見ている間に2メートルは水位が上がり、
空は、この絵本を読んだ人なら想像してもらえそうだが、
「ばばばあちゃん雨降り」そのもの、バケツの水をぶちまけたような振りっぷりだった。
防災無線の音も聞こえなかった。
***** ***** *****
一晩に70センチの積雪の2日後、マイナス13.2度を記録したのだ。
つららを見るのも子どものとき以来、
昼間でも床下から冷気が上がるのがはっきり感じられた。
この日、村の資料を塗り替えるそんな夜が訪れるとも知らず、
私たち夫婦は安城地区からさらに高い「ふるさと体験村」という
村の観光施設まで出かけたのだ。
山に住む村の人たちが「山」と呼んでいる所である。
カーブひとつ曲がるごとに雪は深くなるという。
道路の雪は除雪してあるとはいえ、
「山」まで、しかも夕方から出かけるのは気が進まない。
「こんな日に会議を決行するなんてマジかよ」
と言いながら主人は車を出した。
行きは上る一方だ。
他のメンバーは施設で宿泊になっていたが、
私たちは、夜の10時過ぎに今度は下る一方の雪道を帰る。
冬の夜、「山」は世界から隔離されたようにぽつんと浮かんでいたのだ。
球形の夜空に星がキーンと輝いていた。
片側は山肌、片側には川が流れている。
サイドブレーキを引いたまま何度も車は滑って、
除雪で積み上げられた雪に助けられた。
途中の集落で帰宅するIさんとようやっとすれ違ったが、
平然と運転しているようだった。
次に奥さんに会ったとき聞いたら、
「慣れなのよ」と言う返事だった。
普段は15分ほどの道のりを1時間かけて家にたどり着いた時には、
「いやあ、最高にスリリングな夜だった」
と主人は負け惜しみを言った。
結婚して以来初めて主人に命を預けた格好の私は、
いかにもワイルドな暮らしだと納得した。
翌日の新聞で「Y村、氷点下13.2度」の見出しを見たときは、
どういうわけか嬉しかった。
Iターン日記 東京→島根(25)

眺める人 <4> 2002 12/7 某紙掲載
村の外の人たちには「やっぱりY村は・・・」という認識がある。
しかし村の中では極端な変化の記録も、どうも騒ぎの種にはならないようだ。
出会ったとき、
「ゆうべはよく冷えた」「よく降った」というあいさつに少し力が入るくらいで、
村の外から言ってくるほどには盛り上がらない。
新聞で記録を目にして「なかなかの所に住んでいるな」とか、
電話をくれた人に「一面、雪野原よ」とたわいもなくはしゃいでいるのは、
私のようによそから来た者だけなのだろう。
村の人たちの反応はあるのかないのか、いたって静かなのだ。
確かに実際困っている人たちいるのだから、
たいしたものだと感心している場合ではない。
やはり、ずっとこの自然の中で暮らしてきた人たちから見れば、
私は眺める人だということになる。
でも、わくわくする気持ちもそのうちなくなってしまうとしたら、
それは寂しい。
そういう予感に恐れを抱くこともある。
***** ***** *****
人口は1800人弱、世帯数は750戸余り、高齢化率は約40%、
村の子どもたちは、
二つの保育園で60人弱、小学生は91人、中学生は35人、高校はもちろんない。
所得水準は県内の下から、女性の就業率は上から数え、2番目である。
全国の中山間地と同じ構図を持って、
この村の前途は多難だ。
近隣の町村で新しいことが始まったり、頑張りが伝わるたびに、
この村を振り返って嘆きの声がそこかしこでささやかれる。
何もしないでじっとしていたら、
天然記念物のように希少価値が出てくるだろうと、
内輪で過激に言い合ったりもしたが、これは言ってみるだけのことである。
何もしないでいたら天然記念物になる前に、
「眠り姫」のお城のようにあっという間に草に覆われてしまうだろう。
この村を守っていく困難が増すばかりなのは、
眺める者にだって分かる。
スピードを上げて山の下から風が吹き上げてくる。
この風は、
この村がここにあることの価値を置き去りにして吹いているように見える。
ほおかむりをして知らぬふりができたらいいのにと
眺める人は考えるが、
村はこの風に向き合うことを余儀なくされる。
吹く風がこの村から運び去っていくものが明らかに見えていても、
戸惑うことも許されない。
人はどこへ向かっているというのだろう。
そしてこれは、眺める人の戯言なのだろうか。
Iターン日記 東京→島根(26)

結子の不満 <上> 2002 12/14 某紙掲載
席替え「わくわくしない」
結子が5年生の時、冬休みが明けて3学期が始まった日のことだった。
学校から帰ってくるなり結子は言った。
「なんだか楽しくない。
席替えしたって、ちっともわくわくしないんだもの」
台所に立っていた私は、とっさには言葉が出なかった。
いつものぐずぐずなら適当に受け流しているのだが、
この言葉は私の手を止めさせた。
結子の顔を眺めて、しみじみ、なるほどなあと思った。
「そうだよね。14人しかいないんだもの。
席替えしたって周りはいつも同じ。それで毎年そうなんだもの」
東京でお兄ちゃんを幼稚園、小学校、中学校と通わせている間、
新学年の初めにはけっこう気を遣った。
同級生の男の子の中には、
休みが明けるころから決まって自家中毒を起こす子もいたし、
何かのきっかけでチックが始まる子もいた。
我が家のお兄ちゃんもクラス替えの不安と期待で、
子ども心をいっぱいにしているようで、5月頃までは緊張している様子があった。
その間私はいつもより優しいお母さんになった。
***** ***** *****
旧安城小学校には全校生徒が40数名しかいなかった。
学年の人数によって複式になる。
結子は3・4年と5・6年が複式学級だった。
そのとき5年生だった結子のクラスメートは5年生8人、6年生6人の14人だった。
知らない人の前では私の後ろに隠れるようにする結子だったので、
転校した当初はさすがに心配した。
しかし今思い出そうとしても特別なことは何もなかったような気がする。
低学年から次々と学校での役が回ってきて、その他大勢に埋もれたり、
転校生ということで疎外感を味わうような感じもなかった。
つまり彼女は十分に歓迎され、40数名の学校では、
1年生のおチビさんでも立派に必要な存在だったのだ。
母親の気持ちからして、先生の顔は見えているし、
全校生徒の親からおばあちゃんまで見知っている安心感があった。
新学年が始まっても、次第に気を張るようなことはなくなっていた。
ふいに結子は
「席替えしてもわくわくしない」という心持ちに思い当たったのだろう。
席替えのくじ引きをしてもじゃんけんをしても子ども心が高鳴らない。
結子にとっては一つの事柄をとらえての不満の表現だったが、
私には、彼女が過ごす子ども時代の、
ちょっと切ない感じの訴えのようにも思えた。
Iターン日記 東京→島根(27)

結子の不満 <下> 2002 12/21 某紙掲載
出会えない大勢の友達
村で生まれて保育園に通い、同じメンバーで小学校に上がって行った子どもたちは、
「席替えしてもわくわくしない」という心持ちを母親に訴えたりするだろうか。
A子ちゃんとけんかをすればB子ちゃん。
C子ちゃんの都合が悪ければD子ちゃんと遊ぶ。
帰り道に約束をしたり、家に帰って電話をかけて、
お稽古事の空いている友達を探す。
近くの公園へ行けば誰かしらいるだろう。
そういう東京での記憶を結子は持っている。
たくさんの遊び友達がいたというより、
小さな女の子がわがままを通した記憶のようにも映る。
でもこの村では取り替えのきく相手はいない。
自分で折り合いをつけるか、一人になった自分を引き受けるしかない。
しかも、子ども同士を遊ばせるために送り迎えをしてくれる暇なお母さんは、
村の中にはいないのだ。
生まれた時からお友達の少ない村の子どもたちは、
物心ついたころから自分の心持ちの、折り合いの付け方を経験している。
子どもたちの様子を見ていると、そういう経験からきた気持ちの安定というか、
気持ちの落ち着きを感じる。
都会の子どもたちにはもっと危なっかしい感じを受けるが、
これは大勢の中で一人になることへの不安の反映でもあるのだろう。
人との関係さえも浪費しながら、
足元の揺らぐ感じにいら立っている都会の子どもの一面も見えてくる。
ただ単にたくさんの人がいるということで、
かえって学習されないこともあるのだ。
***** ***** *****
一方で、「わくわくしない」という結子の不満を
わがままと言ってしまうことはできない。
都会と田舎という構図で見れば、
単純には片方にあるものは片方にはない。
片方にあるものを知っているから、
片方にないものが際立って見えてくるということになる。
また決して得られないという思いは、
得られないものに対する一種の切ない思いをかきたてる。
写す鏡を二つ持ってやり取りをする。
これは風が吹いているようなものなのだ。
「あーあ、幼稚園の時みたいに友達がいっぱいいたらいいのになあ」。
かなわない憧れにも似て、結子は一人の自分を引き受ける。
とりあえず私は、
結子の不満に誠意を持ってうなずくしかない。
どう考えても村を出て行かない限り、たくさんのお友達とは出会えないのだ。
Iターン日記 東京→島根(28)

シュレッダー <上> 2002 12/28 某紙掲載
公私の線引きあいまいに
この件に関してはしばらく自己嫌悪に苛まれた。
村に来て2年近くになったろうかというころだった。
どうしても新聞を細かく刻んだパッキングが欲しくなり、
「ドライフラワーの会」でプレゼント用の小箱を作ろうとしていた。
それ相当の量が必要だったが、シュレッダーがあれば事は簡単と思った。
村の中にもいくつか事務所はあって、
私が出入りできる事務所にはシュレッダーはなかった。
そうだ、役場にはあるだろうと思いついた。
「シュレッダーがあれば使わせてもらいたいのですが」
と早速、村の「さわやか住民課」へ電話をかけた。
電話の向こうでお伺いを立てていたようだが、
「それはちょっと困ります」との返答だった。
夕食の時、「使わせてくれたっていいのにね」と言った私に、
主人は子どもに説いて聞かせるような口ぶりになった。
「よく考えてごらん。 東京にいてだね、
区役所に電話をかけて、シュレッダーを貸してくれって言える?」
***** ***** *****
公的生活圏と私的生活圏がダブっている。
村で暮らす人、働く人はほとんどが子どもの頃からの知り合いなのだ。
親類同士も多い。
男の人も女の人も、子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで
ファーストネームで用を足している。
立場や年齢を超えた「ナニナニちゃん」式は、
新参者の私に妙な錯覚を引き起こしたといってもいい。
手にとるような規模の小ささとその気安さに私は誤解をしたのだ。
見識のある人なら、大きい小さいの区別なく、
公的なことと私的なことの線をきちんと引くだろう。
小さければなんでもありの真似をしたのが、ひどく恥ずかしかった。
「誰がソガアなことをゆうてくるかいのお」というくらいの話になって、
役場に勤めるMさんにでもたしなめられたらほっとして、
笑い話にしてしまうべく大いに努力しただろう。
しかしどこからも陰口は届かなかった。
人の失敗に鷹揚であるというべきか、
そうでない部分も見え隠れしたから、なんとも居心地が悪かった。
実害のない、どうでもいいことんは違いなかったが、
狭い世界で沈黙されることの不安が、
私の頭をちらっとよぎったのである。
自分の非常識を棚に上げて言えば、このことは、
村での用心深いものの言い方を納得させて、私を縛ることにもなった。
Iターン日記 東京→島根(29)

シュレッダー <下> 2003 1/11 某紙掲載
魚さばけぬ私に驚き
シュレッダーの件を、恥ずかしさのあまり
村の親しい女の人に話してみたが、別に面白がってはくれなかった。
そんなことより彼女は、タイの刺身について私が話すと、驚いた。
「農協のスーパーにタイが650円で出ていたから刺身にしてもらった」
と話したら、
「アンタ、刺身にしてくれって、頼むン?」と目を丸くした。
「私は刺身は作れないもの。サバだって、3枚に下ろしてもらうよ」
「フーン、アンタぐらいだろうなあ、
650円のタイ一匹、刺身にしろって言うのは。
サバまでおろしてくれって言うモンはおらンよ、この村には」
「エーッ、何それ!
東京じゃあ、イカの皮だって小アジの腸だって、
頼まなくても魚屋さんは取ってくれたわよ」
「まあ、いいわ。
Sさんはそういうモンだって、農協が思ったンだろうから、
これからもタイでもサバでもおろしてもらいンさい」
と彼女はご託宣のごとく言った。
つまり私は、村の女の人はよほどでないと頼まない魚のおろしを、
来てから4年間、何食わぬ顔でしてもらっていたことになる。
しかもサバ一匹まで!
***** ***** *****
似たような価値観や趣味の者だけで、
仲間内を囲って暮らす都会暮らしは、ある意味、
安全圏の中で動いたり、ものを言ったりしているところがある。
こちらへ来てからもそのときのままで動いたり、
ものを言ったばかりに後で悔やんだことはいくつもある。
「ムラ社会」では、
想像力は全方位に、全開にしておかなければならないとそのたびに思う。
もちろん何十年来の住人の顔をして暮らしたいと願っているのではない。
お互いが理解不能な言動は慎むのが礼儀だ。
そのうち刺身の件は
非常識ということで彼女を驚かせたのではないと分かってきた。
つまり、サバ一匹もさばけないということがポイントだったのだ。
家族の食事を預かる女が魚をさばけないとは!
しかも恥じる風もない私のやり方は、違和感を覚えさせた。
村の女の人たちは誇り高く、このことは次第に分かってきたが、
あからさまに自分の手の内を見せるような軽々しさ、
甘えたコミュニケーションの取り方をしない。
「シュレッダーを使わせろ」と役場に言っても驚かないが、
「サバをおろしてくれ」と言う、よそから来た女には驚いたのだ。
さて、サバもおろすようになって、適当にバランスを取っている。