大好きなおじさん <下> 2002 7/20 某紙掲載
言葉に隠れた優しさ
村の中でもう一度引っ越しをしたとき、村の大型ゴミの処理場へ行った。
六年前のことだ。
役場で届けをして自分で搬入する。
それは本線道路から脇道へそれた山の中にあった。
主人と二人、恐る恐る車を入れたのである。
可燃物の焼却炉を過ぎてその先が大型ゴミの廃棄場所だった。
谷あいに大型ゴミが滑り落ちていくように投げ入れられていた。
収集車には持っていってもらえないゴミが、
谷底の斜面を覆っていたのである。
「ここへ捨てるのか」と言ったきり、二人とも言葉をなくした。
普段なら冗談の一つや二つを言い合うのに、冗談にはならない光景だった。
山をわたる風の音と、
時折、高いさえずりを残して飛び立つ鳥の気配しかしない山の中である。
おじさんが私に言った「ヨーニ、ヤレンモン」が、
自然とはおよそ異質なものが、じっと黙ったまま谷を埋めていたのだ。
このとき初めて、山も木も生きているのだという当たり前のことを
私は実感した。
痛いでしょう、気持ちが悪いでしょうと、
子どものように山や木の気持ちを思った。
田舎暮らしの実情だけが私たち家族に物を買うことを躊躇させるのではない。
小さな村に暮らすことで、
ゴミの行き先までがきちんと目に見えることになったのだ。
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もちろん、村の大型ゴミの処分場は三年前に封鎖された。
外からは緑に覆われてその姿をさらしてはいないものの、
谷の底で、おそらく次世代が解決するのを待ち続けるのだろう。
Y子にもあの谷を見せておけばよかったと思う。
村議会には、個人でゴミを燃やすことに制限を設けてほしいという
誓願も提出された。
今では「燃えるモンは燃やす」というわけにもいかなくなったのである。
ところで、田舎暮らしを始めた早々の私に、
最初のカルチャーショックのパンチをくれたおじさんは、
大好きなおじさんになった。
私はそれからも時々頼ることがある。
ストレートなもの言いの先に、心と心で会話しているような
さわやかで暖かい感じがある。
そしてこの言葉は今でも鮮やかに、私の頭の一角を占めている。
「燃えるモンは燃やす、畑に捨てられるモンは捨てる、
ヨー二、ヤレンモンだけ、ゴミに出すモンだあの」。
ゴミを出し続けなければ生きていけない人間の、
精神の覚悟を表す言葉のようでもある。